台湾と朝鮮 【二つの歴史教育】 | Doronpaの独り言

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日本第一党党首 / 行動する保守運動代表
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日本人の大方の認識として台湾=親日、朝鮮=反日というものがあります。一概にこれが正しいとは言い難い部分もあるのですが、戦後の両者の「過去の教育」の過程を見ると、その対応の違いに驚きを禁じえません。親日か反日かということではなく、過去をどれくらい冷静に振り返ることが出来るかが、本来歴史教育にとって重要なことではないでしょうか?

両者の共通点といえば、総督府の存在と独立運動が起こったことが挙げられるでしょう。台湾総督府は1895年の日清戦争終結に伴い清から日本へ割譲されました。一方朝鮮では、1905年の朝鮮保護条約によって朝鮮統監府が設置され、その後1910年の併合条約によって朝鮮半島の統治は朝鮮総督府が司ることになります。

また、両者は共に大規模な独立運動(反乱)を起こしており、台湾では1930年10月27日に初めて大規模な反乱が起き、このとき本島人(漢民族)と原住民による連携によって、内地人(日本人)134名が殺害されましたが、同年11月19日に台湾総督府軍警共同作戦の元、鎮圧されました。これを霧社事件と言います。
そして、朝鮮では1919年3月1日から繰り広げられた3.1独立運動が起きました。崔南善が記した「独立宣言書」に署名した33名がパゴダ公園(当時)に終結し、群衆の前で宣言書を読み上げると、興奮した群集は「万歳(マンセー)」デモをはじめたのです。当初、非暴力・無抵抗路線を打ち出す予定だったようですが、愚かな朝鮮民衆に通じるはずも無く、各地で飛び火した3.1独立運動は暴徒化した民衆によって、焼き討ちや暴行・殺戮・強盗とやりたい放題の騒乱状態へと拡大していったのです。
ちなみに、3.1独立運動に関して「独立運動の血史」(朴殷植 著)では死者7509名となっていますが、総督府の発表では553名となっています。朴は1911年に朝鮮を離れ亡命生活をしており、この3.1独立運動の記録は上海にいた安昌浩や李光洙らの資料をまとめたものであり、実際に自分の目で見て詳細を調べたものではありません。
しかし、現在韓国や一部の日本の資料でも、総督府の正確な数ではなく、この朴による不確かな数字が使われることがあり、より一層韓国人たちの反日を煽っているように見えます。

こうした両者の共通項を見れば、例えば当時「植民地」扱いされていた台湾のほうが寧ろ反日に染まっていってもおかしくないように思えないでしょうか?
朝鮮からは併合後に王公族以外に、侯爵以下40名以上の華族が出ていますが、台湾からは男爵すら出ていないという有様です。行政統治に関しても、日本への渡航一つとっても距離的な問題もあるでしょうが、台湾では朝鮮以上に様々な規制があり、また台湾で台北帝大に入るものは強制的に改名させられましたが、朝鮮では京城帝大に入る朝鮮人が強制的に改名させられることはありませんでした。

このような事実の元でも、台湾では韓国のように反日が吹き荒れるということは無く、もちろん一部に反日を煽る外省人(台湾は元々他部族の島であったが、元々台湾にいた部族を内省人、後に大陸からやってきた中国人を外省人と呼ぶようになった)の存在がありますが、概ね台湾では過去の歴史を振りかざして日本への謝罪と賠償の要求などは殆どないどころか、寧ろ日本の統治を受け帝国軍に入ったものや、帝大に入った台湾人たちが同期会等を作ってそれを誇りとしているのです。
言葉一つ見ても、
台湾総督府による日本語教育は他部族多言語であった台湾を一つに纏め上げるのに役立ったと教えられています。統治によって受けた被害もあるが、より以上に台湾が近代化されたきっかけを作った日本の功績をきちんと台湾では認め教えているのです。

両者の対応の違いを見るにつけ、歴史教育とは何なのかを改めて考えさせられます。



<少しだけ報告を・・・>

現在、7月のシンポジウムに引き続きまして、第二回の企画について準備を進めております。
開催は発表どおり1月8日(日)を予定しておりますが、詳しい内容などについては今暫くお待ち下さい。
11月を目処に公式サイトをオープンさせ、企画についての詳細を告知する予定です。
宜しくお願いします。




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